渕上順子
朝の御理解 昭和52年6月25日
第96節 【世の人があれこれと神のことを口端にかけるのも、神のひれいじゃ。
人の口には戸が閉てられぬ。先を知ってはおらぬぞ。いかに世の人が顔に かかるようなことを言うても、腹を立てな。神が顔を洗うてやる。】
私は、今日の御理解で言うならば、神様が顔を洗うてくださったかのような、あ..お夢の中に色々頂きました、本当に合楽の事を.それが、あ..金光教のお..信者以外の者が言うならばまだ、信心のないものが言うならまだだけれどもね、金光教の信心を頂いておる者が、合楽は、間違っておるとか、まあそれこそ.棒にも橋にも掛からんような、まあ言うなら悪口というか、そういう自評をまあ耳にしながら、本当に神の事をとやこう言うのも神様の比礼だと.こらまた、まあだ合楽がいよいよ伸びるなあと.そういう間違ったとか、あ..金光教ではないとかと風に言われる度にそんな気がしてまいりました。
昨日私、ある地区の教師信者が、それこそ..もう会堂にいっぱいのりっすいの余地もないように集まって、え..こちらのいわゆる舞台の方には、先生方と思われる人達が机を並べてズラーッとその私の話を聞いてくれた、まあ合楽の話を聞くというお話、そして6時間にわたってお話をさせて頂いた、御夢の中でね、そして最後に私が、「今日皆さんが聞いて頂いたそのすべてが合楽理念です」ということで、あのお話させて頂きましたら、それこそ、万来の拍手を起こってまいりましてね、本当に合楽の信心を見直した、これからは合楽に信心に神習わねば、というような不陰気の中にお話を終った御夢でした。
もうそしてお話の調子が良いこと、調子が良いこと、というてもほなら別のこというのじゃない、私がここほな二十七、八年間解いてきたを.まあ..又は.私が頂いてきた御陰にとも.御陰の実証というというものを示しながら、まあお話をしておるという御夢、それを聞いてくださった方達がほなら、もういうならば、合楽という信心が間違いと思とったけれども、合楽の信心が本当だというような風にです、まあ今日の御理解で言うなら、顔を洗ってくださったという感じです。
そこで思うですけれども、結局は私が御陰を受けておるとだけでなくて、合楽の信奉者、御信者の皆さんの一人一人がね、やはり御陰を御受けにならなければ..これは本当の事にならないということです。それには信心がもう楽しゅうして、有難うして、そして愉快を感じられるような信心じゃなからなければならない..ね。
私思うのですけれども、合楽の信心を本気で頂こう、解ろうと.あのそこに焦点を於いての信心の稽古ならね、何年参ったばってん.御陰頂ききらじゃったとか、何年な辛抱して参ったけれども、もう続かんじゃったということは絶対ないと思うです、益々嬉しゅうなって、楽しゅうなって、有り難うなってくる。
これは、例えばほならお花なら、お花の稽古しとってもそうです、お茶なら、お茶の稽古だって同じですよ、まあ一通り.まあ.あ.一つの事を覚えたら良いというところから本当にお茶の道.お茶の精神というか、花の精神というのをどこまでも体得させて貰おう、花の心が分かり、お茶の心が分かるというところまで稽古していったら、止めろというてやめれられるもんじゃないだろうと私は思うです...ね。
信心の稽古というものね、本当に稽古を.しなければならない、おかげを頂く信心から信心を頂くということにならなければならないと、私.本当に教えに基づいてみて、信心の稽古をさせていただいたら、もう楽しゅうなって有り難うなって、夕べどげん寝とらんでんあくる朝の御祈念にはパチッと眼が覚むる程しのですね、いわば楽しさ有り難さ、そして本当に、まあ信心ちゃなんて愉快なことだろうかというような、御陰が頂かれるです。
昨日は、関さんのところの謝恩祭でした、で.まああちらでもお話させて頂いたことでしたけれども、例えば私共が身体がきつい..ね、時にならこうやって前の晩、ひじをこうちょついてね、しただけで身体が楽になるです..ね、私共は御結界でまあここに膝を付くようなことはありません、そりゃこれをすりゃ楽になるから、すぐ眠気が来るから、けれどもほならテーブルならテーブルの上にです.ちゃんと正座しとって、身体がきつくなったら、ちょっとこう膝を片一歩ついただけでも楽になるです..ね、支えるからです。
信心を頂くということはね、いうならば神様がね、お守りくださってある、神様のご守護の中に私共があるということはね、神様がただ見守ってあるというだけではね、心もとないです、金光様の御信心は、神様がご承知だからというだけでは、心もとないです。金光様の御信心はどこまでもね、神様がいつも支えておってくださる、神様がいつもかばっておって下さる..ね、その実感が日々の中に感じられるようになるからね、その神様をはなすわけにはいかん、その神様をいよいよ身近に頂くことの精進をしなければおられないということになるのです。
いつも、ここ四時半下がります、四時半先に一度迎えに来て頂くんですけども、昨日、お風呂頂いたあとに非常に身体がきつかった、丁度.久富さんも寝ておりましたから、暫く休ませてもろうて、少し身体を揉んでもらおうというて、揉んでもらった、まあ時間でいうなら、四時半も過ぎて、五時も過ぎて、まいりました、まあ二.三十分身体揉んでもらって、さあそならお風呂か.ぼちぼち用意をしょうかというて、あの..着物を着終ったところに佐田先生が「今、お迎えに見えました」とこ言う、だからその話を昨日したんです。
例えば私が宅祭りのとこでん行くと言う時にはね、必ず家内と繁雄さんが付いてきてくださるから、いつも私の部屋におっておられるから、いつも分かるね.お話しながらね、家内と繁雄さんにあんた達は、いつも感じておるか、私があの宅祭りに行くという時に..ね、時間が迎えに来るのは皆まちまちだけれども、私が着物を着て「さあ、行こうか」というと、「ただ今、お迎えに見えました」とか..ね、「さあ、まあちゃんと行っとこうか」というてお広前に出てくると車が来るというような、そういう事実をあんた達は感じよるか、たら家内は、申しました、「いやあもう感じよどころじゃありません、本当に親先生と共にあるということは、いつもこんなにも間違いがない、ということをいつも感じよる」と言うのです..ね。
これなんかは、神様がいつも支えておって下さる、皆で迎えるからというて、ここで出て来とったら、何十分間.こ一時間待たなきゃならない、その待っとる間を私は身体を揉んでもらった、これがこの事だけではない、一時が万事なんだと..ね、これは神様がちゃんとこうやって見守ってござるという.冷たい神様じゃないちゅうこと..ね。
きつかない一時ばかい休んでいけ、時間にゃちゃんと間に合うよう..ね、神が起こしてやるからというような神様なんです。
だから神様が見守っておってくださる、神様のご守護をただ受けておるというのではなくてです..ね、神様がいつも支えておってくださる..ね、神様がもう身内に入っていつも働きかけておってくださるという神様です..ね、その例をほなら、これは私だけの専売特許じゃない、合楽にご神縁を頂いておる人達が、一心を立てて信心を頂こうと.いうならばすると、それは断片的では有っても.そこに神様の生き生きとした働きが受けられる、というて、昨日佐田さんがお参りになっておられましたから、佐田さんのところの典子さんの事を話させてもらった..ね。
「どんなに考えたって、教壇に立つとはいや」もう一日行ったばってん、恥きに行くようなこと、「もう今日は行かん、朝お届けして先生が行け」と言わしゃったけども、行かれんと言うて、三十分間声上げて泣いとった、行かんちゅうて、けれどもあんたそげなこと言うちてから、お届けしととじゃけん、そんならもう一ぺん親先生のお取次ぎを頂いてそしてから行く行かんを決めんのというて電話をかけてきた、あんたが行こうと思いよるけん行かれんと、ちゃんと神様が立ち向かってくださる、神様のお供して行くと思うて行きなさい、まあ、元気をつけましたから、元気が出てようやく行く気になった。
時間も遅うなったから、中学校までタクシーで送ってもろうた。そいでタクシーから降りてそのタクシーのちょっと後ろのナンバーを見たところが、4154という番号であった..ね、そこで日頃頂いている、そういう稽古が一家中で出来ておりますから、4154というのは良い御用ということになる、本当に大学に行く時にも、親先生がお取次ぎを頂いて、そして.なら中学校の先生になる事を目指して、そして自分が今.今日その実習に行くことに、行くの行かんの言うておる事が一変に吹っ飛んでしまった。
こんな素晴らしい良い御用をさせて頂いているのに.相済まんという心が起こってきた、もうとたんに、自分の心の中にはもう元気いっぱいのその心が湧いてきたちゅぅ..ね。
学校へやらせて頂いたら、今までの先生方の冷たい態.態度がもう.手の平返すように、先生方が皆ご親切であった、受け持たせて頂いた子供達との間には、教壇から冗談の一つも言えれるくらいに楽な教導が出来た、もうそれが有り難い、明くる日からずーとその教師を、お父さんにもうあの.この.きのう一昨日だったですか、何か英語で頂く、神様がこんなに御陰を下さる。
昨日なんかも御陰を頂いたと.昨日は、中学校の三年六組を受け持つことになった、そしたら昨日御理解が、三十六節じゃった、もう神様がこのようにして、いつも.いつも守っておってくださるだけではない、支えておって下さるという実感で.もう今度は学校へ行くのが、嬉しゅうして.楽しゅうなって来た..ね、私は信心とはね、いや金光様の御信心とはそういう御陰を頂いて行くことなんです、それにはなら親先生の言うことを何時も聞いとかないかん、これをなら合楽では、一つの天地と私共の関り合い、一つのリズムというものが、流れてくる、生まれてくるんです。
そのリズムに乗って.いやでいやでたまらん泣ごといやであった事でも.有り難うなって楽しゅうなるというのですから、信心が楽しゅうなって、それこそ愉快になってこなければならない、でないならば教えを本当に行じていないということになるという、まあ話をさせて頂いた、まあ例えということのについては、いろ( ?)させて頂きましたら、(一本菊の花を頂いた、少し斜めになっておる、それに大きな木でこうやっって二股で支えがしてある、けれども菊の花に当たってない。)
(はあーこれは御霊様への奉仕が本当にでけていないのだな)と(いわゆる御霊様ひたひたーというものがないんだなあ)とさあ暑い時には冷たいお水の一つも、寒い時には暖かい物一つも..ね、それこそ生けるものにいうならばこうしが、親に孝行するように御霊様というものは頂いて行かなければいけない、只朝晩御祈念をしよる、祖先賛詞をあげよるといったような事ではいけない、それこそ宗教によっては、先祖を大事にさえすりゃ家が繁盛する。
先祖を大事にさえすれば御陰がよう叶う、というような.それ.こう看板の宗教すらがあるくらいなんだ。
決してなら御霊様をどんなに大事にしたからというて、御霊様が病気を治しきんなさる筈もなかなければ、ほんなら開運の働きをしてくださる筈は絶対ないのだ..ね、そういう親にでも、例えば先祖の御霊様にでもそうしなければおられない心が天地通うのだ、天地の親神様お喜びになるのだ、だから親孝行せずにはおられん、お先祖様を大事にしなければおられない、という信心が生まれてくるから、天地の親神様がお働きくださるんだ、だから開運にもなってくら、病気も治る..ね。信心もいわゆる中途半端なとこでいくと、そういういうならば大変な間違った、御霊様が何か働きが出きなさるような.思い方に間違うようなことがあるんです。
私は昨日もそのお話の中にそういう話もしておる..ね、今まで合楽.御霊様ということ.をいかにも御霊様ばかい、御霊様の働きが頂けるように、いわゆる御霊ながらの働きが出来られるように、御霊の世界では、御霊様の働きが出来なさるように、この世でお金がなからなければ不自由のように、御霊様にもあちらにお徳というものが.神様のお許しというものがなからなければ.御霊ながらの助かりが頂けんのだ、だからこちらからはそれを送ってあげる働きをしなければならない..ね。
ところが御霊様がね、ひたひたっと支えはしてあるけれども、もう.菊の花と支えとが一緒に繋がってない、成る程お道に倒れて(?)あったろうと思う、けれどもななめに成っとから、これを起こしていく信心がなされなければればいけないといったようなこと,支えということがどんなに素晴らしいことか..ね、もういうならば.もう霊界編も一時間くらい話よ、ちゅた感じでしたね,もう始めて聞く話に(? )がもう始めはね、抵抗を感じよったけれどお話しながら,ところがやっぱり合楽の親先生の言いなさることがほんなごとじゃろて言う風に旦那が納得せるようにもう一時間ぐらいにかかって.お話をした。
何故成り行きを大事にせねばならないか,というなぜ成り行きを大事にしなければならないか、ということをです、もうそれこそもう噛んで含めるように,何故成り行きを、いかに神様を大事にするというても、神様の御働きをそのものを大事にしなかったら、神様を大事にすることにはならないから本当の御陰にはならんのだ、真の信心と言われるが真の信心とはこれだ..ね、自然界にはもう千年、万年かかっても一切を丸うしょう。丸うしょうという働きがある、その自然界の心を心として、金光大神が取次ぎくださるところのご信心というものは、いわゆる「御陰は和賀心にある、和らぎ喜ぶ心にある」と仰るのをもう的確に教えておられるわけ。
そこで自分の心が和らぎ喜ぶ心なることにいよいよ精進させて頂くということ..ね。
現在の地球上には、もう死相が見えると私は頂いておる..ね、いうならば普通の破滅を神様はそれこそ..ね、...何とか助ける手立てはなかろうかと、いう神様の願いを受けて合楽は建っておるんです、もう地球上には危機が迫っておる、そういういうならば.ことがです、沙漠の真ん中に雪が降って沢山の人が凍え死んだ、南洋の海が凍っていうならば船が脱出できない、というようなです、今までかってなかった地球上に異変が起こっておるのも..ね、神様のいうならば御心を寒うするような、人間の心がけ、心の状態がなってきた事を嘆いておられるんだと、これを歓天喜地にして行く..ね、喜びの天、いうなら神様が喜んでくださる、人間氏子が喜べれる、転変喜地..ね、歓天喜地という御理解をもうこれを一時間ぐらい掛って一生懸命に話ておる。
もう歓天喜地なんか、私.戸板に書いてお話をしてるんです、はあもう本当にもう..溜息の出るような感触がね、それこそ(じわ?)こうやってこちらにこの...(じわ?)というのはね、もうあまり感心して、ハアーちゅて溜息が出るでしょう、その何千の人の溜息がこちらへ返って来るようなその感じなんです、本当に寒天危地これは寒い天、危ない地という現在の状態をいよいよ歓天喜地にして行かなければならない、何故そういう.そういう働きが起こってくることの為にです、ほなら合楽が使われておるかということを私はそういう使命感にたっておるという話を.これも一時間ぐらい掛かって話しておる..ね。
何故.成り行きを大事にしなければならないか、何故.全ての事に物に御の字をつけなければならないかという事を.もうかんでふくめるように聞いてもらっておる..ね。
何故.不平不足を言うたらいけないか、と言うて私は坂本さんところのお母さん.お父さんの例を話した御夢の中で..ね、日田に『あや』というホテルがある、そこの奥さんのお父さんが長年ちゅうぶで寝たっきり.もちろんものもぜんぜん出らないという酷いちゅうぶであった、それを合楽に御神縁のになって、夫婦の者が一生懸命に親の事を祈ることになって来た、御陰でもの言わんお父さんがもの言うようになった、もうそれこそ側におったお母さんが腰抜けたち言うからほんなごっつでしょうね.やっぱり...そしてそれがあ...十日か十五日続いたでしょう。
そういうある日にです、それこそ自分の嫁ごやら娘やら息子やら、自分の部屋に皆集めてです、自分が長年寝とる間にものが言えんようになってからこのかたのです、自分に対する取り扱いがいけなかったということをもう.こげん言われるじゃろうかちゅうごと.ずーっと長年の間に.その自分に対する取り扱いの悪かった事を嫁ごに息子達に皆.いうならば口状言われた、もう言い終わられるのと言葉が止まるのがいっしょじゃった、というほどにね、不平不足を言うということは御陰を崩してしまうということが解るでしょう。心一つでね.すべてを創る、ということと同時になら心一つですべてをこわすということにもなるじゃないか。
次に私は、熊谷さんのお導きで参って、最近熱心に参って見えれる方が姑親との折合いが悪かった話を例にして話ておる..ね、お母さんが長い間、いうなら最近はもうならやまぶしこうと同しこつ。
先日もそこの..ん..名護病院ですか.に入院しておろう年寄りが参って来た、もう長い間入院しとったけれども、おかげでもう退院して良いと言われるけんで向かえにきてくれちゅうた、そしたら今田植えで急がしかけん.まあ一時ばあちゃんおってくれんのちてから嫁ごが言うた、悲しいことですよね、もう病院にはおるお金はいらんし、食べさせてもらえるしね、本当に私ならやまぶしこうを感じましたね、姥捨て山ですよ、今の病院あの年寄り沢山抱えておられる病院はありゃもう本当に.姥捨て山です..ね。
そういうおばあちゃんの所にですね、もう普通はもうものもいうごとなか、いったっちゃかえっておばあちゃんが腹掻きなさるそうです、何とかかんとか、不平不足言いなさるそうけん、もう不平不足を言わ.聞くごたんならいかん方がよかちゅう..ね、ところがね、熊谷さんから御陰の泉を何冊もいつも借って、それを読ませて頂いておると、そして信心は親孝行が根本だと言う事を聞かせて頂いてね、自分が姑親に本当の付き合い方が出来てないことを分からせてもろうて、その方がこういう事を言われた。
つまり.......親不孝は誰でも出来るけれども、親孝行ちゃなかなか出来んものだという..ね、そこに気づかせて頂いて、そのある日、おばあちゃんが甘い物が好きだったと言うんで、あのそれこそ砂糖を効かせてぼた餅を作ってから病院に持っていった、もうおばあちゃんがもう涙を流して喜ばっしゃった、嫁ごがそげんしてもらう始めてじゃった、ところがそん時にはすでに通じとるですね、そういう思い。それ以来というものは、おばあちゃんも段々御蔭を頂かれる、嫁ごが来ると楽しみに待たれるぐらいならせて頂いて.そのことの御陰が子供やら孫やらの上に現れてきておるという話をね、もう本当にもう皆がね.もう涙を流してそのお話を聞いてくださるんです..ね。
何故、親孝行をしなければいけないか、あっちがあっちじゃけん.こっちもこっちというたらもう親孝行は出来ん..ね、何故不平不足を言うたら御蔭が崩れるか、もうそれこそかんで含めるようなお話です..ね。
教団的に言われる今いわれるところの..ね、【頂く信心から生みなす信心】というということも最近頂く御理解をもういよいよ分からせ.お話させて頂いたら、いうなら壇上の上に座っておられるこりゃ教師の方達、先生方という方達がもうこうやって膝を叩くようにしてから話を聞いてくださる、なる程、生みなす生みなすと言うただけでは.一人じゃ生みなされんとたい、ということが段々分かって来た、今まで金光教で言うておったね.御利益何かというものは、御蔭信心なもう切り捨てて、いわゆる信心が分かっていく事だけに精進した、それから生まれるかと思うたら生まれない..ね、金光教の信心の独自性ということ、についてこれもまた一時間くらいかかって、結局六時間話たんですから御夢の中で..ね。
そして.それがお話終わった時にはもうそれこそ万来の拍手の中にね、いうならば合楽をみ直させて頂いた、合楽というところはそういうとこか.というような不陰気の中のに壇上を下りるところで目が覚めた、そしたら今朝がこの御理解なんです..ね、人がどんなに神の..顔にかかわるような、【神の事を口はに掛けるのも神の比礼じゃ、人のことは戸が立てられぬ、先を知ってはおらんぞ】といかに世の人が顔にかかわるようなことをいうても、腹を立てな神が顔を洗うてやる、夢の中で顔を洗うて頂いた感じの御夢でした..ね。その御夢の中にお話したことを今日皆さんにかいつまんで聞いて頂いたんです..ね。
けれどもこれはもう一辺なる程そういう話を頂き直して、何故.不平不足を言うたら御蔭が崩れるか、何故.成り行きを尊び大事にしなければならないか、何故.親を大事にしなければならないか、先祖を大事にしなければならないか、ということをです、これはもう本当に合楽理念の真になるところですから、ここんところをいよいよ自分のものにして行くならばです、信心がもう有難うなって、嬉しゅうなって..ね、それこそ典子さんじゃないけれども、泣こうごと行こうごとなかった学校へ.もう楽しゅう活き活きというならば喜びいさんで.学校に通われることが出来るような御陰が受けられるんです。
そういう働きがです、神様に守って頂いておるというのじゃなくて、神様にいつも囁かれてておる..ね、神様にいつもおかばいうを頂いておるという実感の頂けれる信心を身につけていかなければいけません..ね。 どうぞ。 渕上順子